偲ぶ会に寄せられたみなさまからのメッセージ
「あっ!下田さん!」
東久留米あたりを歩いていて、何回そう思ったことでしょう。下田さんがいなくなってから、世の中にこんなに似た人がいるなんてとびっくりしているのです。
下田ヱミコさんとの最初の出会いは、今から約30年前、私がひばりが丘駅前で「綾秦きもの文化せんたあ」をやっていた時でした。教室ではきものの他に組みひもや織物のお稽古がありました。ある夜、小柄でニコニコした女性がいらして「3人目の子供が生まれたので、何かお稽古事を始めようと思って・・・」とのたまわったのです。こちらは「エーッ?3人目が生まれたからお稽古なんてできないわ」と言うのがフツウなのにと、びっくりしつつ嬉しくなって、その心意気にホレました。下田さんは、着付けと組みひもを長いこと続けました。
ある時、豊島公会堂で綾秦主催のきものショー開催の折、受付をやって頂くことになりました。我が夫故馬場正人から「受付にいる感じのいい奥さん」という言葉が出たので、「その方におべんとうを持って行ってちょうだい」ということで、一家中のお付き合いが始まりました。
月日は経って、今から24年前、私は東京赤坂に「布・今昔あやはた」を開店いたしました。その後、南フランスで日本フェステイバルがあるのできもの部門で参加してほしい旨要請を受け、下田さんと私が色々なきものを持って出かけることになりました。同行の方々総勢40名程、お囃子・日本舞踊・生け花・写真など賑やかでした。
特にお囃子の方々は鼓・太鼓・笛と歌舞伎の舞台に立っている方々でした。その中に面白い方がいらして、下田さんが子供のころ郷里の長崎県島原では、竹から竹へ飛び移るのが得意だった話をすると、<竹とびのヱミコ>と言うあだ名をつけてくれました。以来何かと、竹とびのヱミコの名前がでるようになりました。「竹ばかりでなく木登りナンテ簡単よ」と言っていました。
下田さんが具合が悪くなって、4年間頑張って、でもどんどん悪くなって、でもまだ自転車に乗ったりして。
2006年2月19日のその日がいつか来るのは分かっていながら、パリでその報に接した時は、悲しかったですねー!
ayahata
今も私達NPO法人 MEIMI・CLUBの仲間を見まもっていて下さることを感じています。
私達の活動は東久留米では初めてのことばかりで、それを行うことは、行政と何度も話し合っても進まないことばかりでしたが、不思議にも行政からOKが出てイベントが成立。そのわけが下田さんの陰のご尽力でした。私が下田さんにお礼とともに「なぜ?どうして」と言うと「良い事をしている。大切なことだから。」との返事でした。彼女の政治活動への協力は、いっさいしていなかったのに・・・。
NPO法人 MEIMI・CLUBは彼女の思いにささえられ誕生しましたが、理事になって下さり、設立のパーティーには出席するからとの約束をしていましたが、亡くなった前日に東京都からの認証の連絡が入りました。
彼女の人としてのすごさをあらためて感じ、今後も下田さんの意思に副う様に活動を続けていきたいと思います。
MEIMI・CLUB
下田さんの闘病姿勢は、何か社会の役に立ちたいというのがベースにあった気がします。調子がよければ、何か活動しなきゃという感じでした。
治験を希望されたのも、その実験的な側面が薬の承認に必要で、そこで役に立ちたいからと言っていたことが思い出されます。ご冥福をお祈りいたします。
shinozaki
お名前のごとく“笑み”を絶やさない下田さんでした。相談ごとにも耳を傾けて下さり、解決の糸口を一緒に考えて下さる方でした。
娘が大学生の時、着付けを教えて頂き、また別の下田さんに出会うことも出来ました。どうだんつつじの季節には、毎年思い出すことでしょう。下田さん、様々な場面でありがとう!
hirao
下田ヱミコさんとお別れして、半年が過ぎたのですね。ヱミコさん『火の女』でしたよね。
abe
下田さんが私と同じ長崎のご出身だと聞いたのは、そう昔のことではありません。お亡くなりになる直前、ふるさとにお帰りになったことを大変喜ばれたと知り、余生は故郷でと思う私にとりまして、胸がふさがれる思いでありました。
旧知の千坂氏の樹木葬を望んでおられたとは、下田さんらしいと感じます。千坂氏の人柄・一ノ関のお寺は素晴らしい所です。あざやかな人世を送られた下田さんにとっても、きっと最良の地になることでしょう。とはいえ、すでにあちこち自由にとびまわっておられるに違いありませんが・・・。
yamamichi
下田さんが逝ってからの7ヶ月は、長いような短いような時間でした。あの可愛い笑顔と副作用で色が変わってしまった手のひらを見せてくれた日が、昨日の様に思われます。心からご冥福をお祈りします。
hirokawa
下田さんの訃報を風の便りに耳にしたのは、花便りの届く頃でした。病を患われたのも知らなかったので、本当に驚きました。
落合川改修に当たって、東京都側への働きかけに随分忙しくかけまわっていた頃の中心にいた下田さん。都議会を通して、また北北建の事務所を通して一緒に動きまわったこと、「どじょうの会」のパンフレット作りに毎日のように顔を合わせ、忙しい忙しいと言いながら、いつも楽しい笑顔の絶えない仲間でした。
まだまだお若かったのに、惜しい方を失いました。
ooizumi
徐々に「下田さんはこの世にいないんだよなぁ・・・」と、しみじみします。ホントに“つかの間”に多くの事に尽力され、お手本を見せて下さいました。
またあの世でお会いできる事を楽しみにしています。立派に生き抜いた下田さんへ。
takabayashi/hayashi
下田さんの包容力に甘えっぱなしで、何もお返しできず、申し訳なかったと思います。
tanabe
生前はとても良くして頂きました。とても淋しい思いをしています。
totsuka
粘り強さとおおらかさ、そして本当に人間味のあるやさしさ、いつまでも忘れません。下田さんにはただただ感謝のみです。ありがとうございました。
nishikawa
下田さんとはいろんな活動でご一緒し、また、私の選挙のときに本当に応援していただきました。本当に残念で淋しいです。
fukushima
穏やかだけれども強い意志をもった人でした。まだまだご一緒に活動したかったと残念でなりません。ご冥福をお祈りします。
inoue
「市民が主役」のまちづくりを共に頑張った歴史を大切にして、生きる糧にしたいものと、なつかしさでいっぱいです。
ishii
平和や憲法・教育基本法の大切さ・正義感など、意見・思いが一致して信頼していました。
亡くなる少し前に東久留米駅の改札付近でお会いしたとき「頭の中に転移して、これから病院に行くの」と云って「大変な世の中になってきたね。頼むわね、皆川さん。」と、ひたっと目を合わせて云われました。
minagawa
私の選挙の時、一生懸命手伝ってくれたヱミコさん。「沢西、お辞儀がなってないよ」などと、おしかりを受けたことが昨日のように思い出されます。ヱミコさんを思い出す時、いつも泪が自然に出てきます。ヱミコさんのこと一生忘れません。安らかに眠って下さい。
sawanishi
下田さんとは25年のおつきあいでしたが、闘病生活が強烈な印象として残ることになりました。命の火をかき起こすように活動する様子は、見ているのがつらいほど人の力の限界ギリギリでした。故郷長崎への旅の様子を嬉しそうに話す電話が最後となりました。これからは、私の宝物として生き続けてくれることでしょう。
asada
入院中お世話になりました。いつも明るく前向きに病と闘ってらっしゃる姿には、とても勇気づけられました。
furusawa
私は20年近くヘアーを担当させて頂きましたが、故人はいつもおしゃれに気遣っていらっしゃって、明るく元気な方で、こちらも元気にしてもらいました。
本当にお世話になりました。残念で仕方ありません。いつも元気だった顔が浮かびます。
kawano
ヱミコさんとご一緒に、長崎の小浜温泉に行けなかったのが残念です。書道の仲間でした。
yamakawa
いつも穏やかな笑顔を絶やすことのなかった下田さんのようになれたら、と思っているのですが。
fujii
親しくさせていただきはじめた時には、もうご病気だったのですね。
子ども達のために何かできることはないかと模索しているところでしたので、児童館運営というのは、とてもキラキラした目標として私の前にありました。とても残念なことに、目標も指標も失ってしまい、今、霧の中に立ち止まっています。笑顔で「やろうよ」と言ってくれる人がいません。
morita
早くお知り合いになって、いろんな事をもっともっと教えて頂きたかった。あなたの笑顔が大好きでした。あなたとご一緒出来た事・時間、私の大事な宝物です。いつまでも忘れません。ありがとうございました。
ukai
いつも背すじをピンと伸ばし、相手の目をまっすぐ見てお話される下田さんを想い出します。一本すじの通った生き方をされた方として心に残っています。
maruyama
下田さんとは直接何かをご一緒したことはありませんでしたが、市議としてのご活躍・様々な分野での前向きな姿勢には、いつも感心しておりました。教育のこと・中学給食のこと・まちづくりのこと・環境・ゴミの問題など、まだまだ取り組んで頂きたいところ、大変残念でしたが、その次をまた新たに切り開いていけるかは、残された私たち市民ひとりひとりに課せられているとつくづく思います。
tanaka
作業所設立当初から、下田さんにはいろいろとお世話になりました。氷川台時代の作業所を見学して頂いたこともあります。病気になられてから、ゆっくりお話する機会を持てなかったことが残念でした。
takahara
下田さんとは、生活クラブを通じて知り合いました。稲葉さんの選挙応援や、ビン・カンの回収などでご一緒しましたが、下田さんからは学ぶことが多かったです。
hamada
いつも力になっていただき、お世話になりました。昨年末に近所の方々数人でランチを楽しみ、その後もひばりヶ丘駅近くでお会いし、しばらくの間立ち話をしました。
困っている事など、いつも話を聞いていただきました。忘れません。
moriyama
下田さんのお子さんと娘の幼稚園が同じだったり、当時のことばの活動(ラボ→ヒッポファミリークラブ)を主宰していた関係で、おつきあいをさせていただいてました。
その頃から下田さんは、学校給食に関する事等で活躍されていました。早すぎる死で驚きました。
suzuki
生活クラブの活動の中で、大変お世話になりました。自ら実践・行動し、私たちを引っぱってくれました。その精神は、今も私を勇気づけてくれます。語ればきりがありません。
sugiyama
下田さんとは、生活クラブが準備支部の頃からその飾らない人柄と誠実さに魅せられて、25年位のお付き合いでした。一番の思い出は、一緒に選挙カーに乗って過ごした選挙戦です。特に最初の選挙では、下田さんの演説が日に日に上達していくのが良く分かりました。初当選は本当に嬉しかったです。
takahashi
ファミリーの最初の頃、本当にお世話になりました。下田さんの駅前の事務所での和気あいあいの雰囲気と、その中心の下田さんの笑顔を心からなつかしく思い出しております。
morimoto
ヱミコさんがお亡くなりになって、早7ヶ月以上になるのですね。最初にお目にかかったのは、剛君の入学式だったと思います。私の所に来られて、初めてお逢いしたような感じでなく親しくなり、土屋さんのところに伺い、洋服などを縫ったりしたものでした。
剛君・哲君・和君、三人の力で頑張ってください。いつまでも見守っております。
goto
下田さんは東久留米市民のために、たくさんの宿題を作っておいて下さいました。
私は今、その一つ二つを必死になって追いかけていますが、なかなかの難題ばかりです。我が身の力不足を痛感する毎日です。
ujita
『話を聞く』『受け止める』『ほめる』『考えはきちんと言う』『笑顔』下田さんから学んだ、人との接し方です。下田さんのまろやかな声が大好きでした。
今あらためて「しもエミダイアリー」を眺めると、記録の蓄積に驚きます。入院中、しんどい身体で食事の記録をつけ、退院後には整理して渡してくれて・・・。まだまだ続けたかったのに。しもエミダイアリーを作らせてくれたことに心から感謝しています。
umiusagi